思い起こせば昨日は雨が降っていた。降るというより、落下すると言った方がしっくりくる無機質な感じの雨だった。夜、車で家に帰るときに信号機から落ちる雨だれを見た。淡い夕日のような色の街灯の光に照らされて、それらは白っぽく輝いていた。よく目を凝らすと、雨だれは雨粒よりも二回りほど大きかった。ピーンと思った。ひょっとして、この交差点で、雨だれと雨粒の大きさの違いに気付いたのはぼくだけかもしれない。そう、前回の日記にも繋がってくるのだが、最近のマイブームは「この角度から世界を見たのはぼくだけかもしれない」とワクワクすることだ。さらに欲張るのなら、それを自分なりの方法で表現したい。それは別に役立つ発見である必要は無いのだ。いや、ひょっとすると人生道草とも言えるような、どうでもいいことの方がポイント(何の?)は高いかもしれない。に引っ越しますhttp://www.rokubou.co.jp/area/shinjuku/mansion_nishishinjuku.html


どうでもいい発見の反対にあるのが大切な情報だ。それらは、大勢の人が共有できるように簡単明瞭な表現になる。「三つ目の信号を右」とか「時計台の下に三時に集合」とか、誤解を招く表現は避けられ、さらに余分な情報がカットされる。「二つ目の信号機の黄色が妙に鮮やか」などは道案内にはまったく関係がない。そのような正確を期す情報とは別の文法で語られるべきなのが個人の発見かもしれない。たとえば、「街灯に照らされてた雨だれは雨粒よりも大きくて重たげ」「近所の中華料理屋のイスは座面の裏まで油でヌルヌル、そしてなんか焦げている」「公園にある水飲み用蛇口(まるっこいやつ)はコックを全開にしたら二メートルぐらい吹き上がる」などだ。これらの発見は知らなくても生きるうえで困らず、ゆえに死ぬまで知らない人も多いだろう。一見、発見したところで世界が何も変わらないように思えるかもしれない。いや、実際にそうなのだろう。でも、ぼくはなぜかここにぐっと来る。なぜか、分からないけれどちょっと考えてみる(次回へ続くかも)。